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Column

お話:岡谷市教育委員会
山田武文さん

ぐんが郡衙以前のえのきがいと榎垣外遺跡の姿

〜馬産のはじまり〜

 古代日本における馬の飼育は、5世紀頃に朝鮮半島との交流を通じて本格的に始まりました。これは、軍事における騎馬の重要性が認識されたためです。馬を飼育する施設は「まき」と呼ばれ、飼育だけでなく品種改良や繁殖も行われました。
 日本での馬産は畿内から始まり、需要の増加に伴って各地に広まっていきました。信濃国では伊那郡(現在の飯田市)で馬産が始まり、その後、馬の飼育に適した土地を求めて諏訪地方へと進出してきたと考えられています。

榎垣外遺跡  えのきがいと榎垣外遺跡は、東西を横河川とじゅうよせがわ十四瀬川に囲まれ、南は諏訪湖、北は長地山地に遮られているため、地理的条件がよく、馬を飼育するのに適した地形でした。
 また、周囲の古墳からは多くの馬具が副葬品として発見されていて、6世紀半ばにはこの地域で馬産が盛んに行われていたことを示唆しています。特に、コウモリ塚古墳から見つかった飾り馬具は、埋葬された人物が馬産における有力者であったことを物語っていて、えのきがいと榎垣外遺跡が馬産地であった可能性が高いと考えられています。

榎垣外遺跡

 もし、古墳時代に馬産が行われていたとすれば、その担い手である人々が暮らす集落が近くにあったはずです。しかし、えのきがいと榎垣外遺跡では集落と呼べるほどの遺構は発見されていません。では、集落がなかった理由について、ぐんが郡衙の創建とあわせて考えてみましょう。

 大化の改新後、律令制に基づく中央集権体制が整備され、各地にこおり(後の郡)が置かれました。郡の役所であるぐんが郡衙を設置するには、十分な広さと交通の便が考慮される必要がありました。当時の諏訪郡が現在の諏訪郡と上伊那郡の一部を範囲としていたとすると、えのきがいと榎垣外遺跡は地理的にその中心地に位置していました。そのため、牧として使われていた広大な土地にぐんが郡衙が整備されたと考えられます。これに伴い、従来の馬産地としての機能は、おかやまき岡屋牧のような別の場所に移されたのかもしれません。このように、えのきがいと榎垣外遺跡が広大な牧からぐんが郡衙へと役割を変えたことで、集落の痕跡が少なくなった可能性があります。