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古代諏訪の都

榎垣外遺跡

諏訪湖底・曽根遺跡と旧石器の狩人たち

Prologueプロローグ

諏訪湖北・最大の遺跡は、諏訪の都だった

榎垣外遺跡

 長野県岡谷市おさち長地一帯に広がるえのきがいと榎垣外遺跡。古くから諏訪湖北地区で最大の規模を誇る遺跡として知られていました。
 最初の調査は、明治34(1901)年にえのきがいと榎垣外遺跡内のスクモ塚古墳で行われました。この発掘では多くの鉄剣や馬具、須恵器などの副葬品のほか、勾玉や金環などの貴重な装飾品も多数出土しました。
 その後は本格的な学術調査が行われないまま、宅地化や開発が進行。埋もれたままの遺跡の状態が心配されました。
 しかし、『岡谷市史(上巻)』の編纂事業を機に、えのきがいと榎垣外遺跡は諏訪の古代史を考える上で極めて重要な遺跡であるとして、再び注目を集めることになります。これを受けて、昭和46年(1971)年、公共事業などの開発に伴う発掘調査が積極的に進められました。
 その結果、えのきがいと榎垣外遺跡が奈良・平安時代の諏訪地方における「都」のような中心地であったことが判明したのです。発掘調査によって再び日の目を見た数多くの遺物や遺構は、文献資料がほとんど残されていない諏訪の古代の姿や、当時の人々の生活を鮮明に描き出す貴重な手掛かりとなっています。

 調査をさらに進めると、広範囲にわたる遺構・遺物の存在が明らかになり、えのきがいと榎垣外遺跡が縄文時代から中世に至る複合遺跡としての様相をより明確にしていきました。
 特に、昭和57(1982)年に行われた長地保育園建設に伴う発掘調査は学術的に大きな衝撃となりました。この調査で発見されたのは、桁行が十間以上=18m以上もの長大なほったてばしら掘立柱建物の痕跡です。この発見で何らかの官かんが衙=役所が存在していた可能性が高まりました。
 その後、令和6年までに300回以上の発掘調査を実施。さらに、長い建物(長舎)に囲まれた正庁を確認。結果、奈良時代から平安時代にかけてのかんが官衙、それも諏訪郡を統括する「諏訪ぐんが郡衙」であったと判明しました。
 さらに驚くべきは、えのきがいと榎垣外遺跡は『しょくにほんぎ続日本紀』に養老5(721)年から天平3(731)年の10年間のみ設置されていたという幻の「諏訪国」のこくが国衙(国の役所)でもあったことが推測されました。

01えのきがいと榎垣外遺跡の時代背景

古墳時代から奈良・平安時代へ

 旧石器時代から縄文時代の狩猟・採集中心で比較的平等な社会は、弥生時代の稲作伝来とともに貧富の差が生まれ、各地に地域をまとめる首長が出現し、社会の階級化が進みました。特に近畿地方の有力な豪族は現在の奈良県付近に強大な勢力を築き上げ、「ヤマト政権」へと発展します。
 権力を持ったヤマト政権は、地方豪族とのゆるやかな連合を形成しました。その象徴として前方後円墳などの巨大な墳墓が各地に築造され、影響力を示しました。この時代は古墳時代と呼ばれ、小さな「クニ」が集まって「日本国家」へと移行する重要な転換期となりました。
 しかし、政権成立後も豪族間の勢力争いは続き、天皇を中心とした統一国家の建設は難航します。

日本初の憲法制定と国政改革

榎垣外遺跡

 推古天皇のもと、摂政となった聖徳太子と豪族出身の蘇我馬子が主導した国政改革によって、中央集権体制は加速しました。
 その代表的な取り組みの一つが「十七条憲法」の制定です。この憲法は、役人たちが争いを避け、互いに協調すること、そして豪族間の対立を抑制することを目的とした、官僚の心構えを定めたものでした。仏教や儒教の思想を取り入れつつも、日本独自の精神が反映されており、後の日本の政治や文化に大きな影響を与えました。
 また、能力主義に基づく人材登用を目指した「冠位十二階」も導入されました。これは、従来の氏族制度による世襲制を廃し、才能や功績に応じて役人を登用することで、天皇を中心とする新たな政治体制を確立しようとする試みでした。
 しかし、聖徳太子の死後、それまでの権力バランスは崩壊し、蘇我氏は急速にその権力を拡大させました。蘇我氏は天皇に匹敵するほどの力を持ち、政治の実権を掌握していきました。
 645年6月12日に起きた蘇我入鹿暗殺事件(いっし乙巳へん)を契機として、大規模な政治改革である「大化の改新」が始まり、『令』による国づくりが本格化していきます。

02律令国家のあらまし

律令制は、法による国家の統治

 大化の改新による大きな政治改革は、それまでの政治構造を大きく変え、豪族の力を抑え、天皇の権力を強化しました。
 その核となったのが律令制度です。これは、「律」と「令」という法律によって国家が統治される体制のことです。
 「律」は「してはならないこと」、「令」は「しなくてはならないこと」を定めたものです。
 中央集権的な官僚支配体制が特徴で、天皇を中心としたヤマト政権が土地と人民を支配しました。
 701年に制定された大宝律令は、中国の律令を参考にしつつも日本の現状に合わせた律と令を制定し、国家=天皇による支配体制の確立を進めました。

律令制度の基本原則

  • 公地公民制:土地は国家が所有し、
    人民は国家に属するという原則です。
  • 班田収授法:国家より土地を貸しあたえられ、
    水稲を耕作し税を納める政策です。
  • 人民には、租・庸・調・雑徭などの税が課せられ、
    農民は重い負担を強いられました。
  • 天皇を中心とした中央集権体制のもと、
    貴族階級が官僚として政治を担いました。
榎垣外遺跡
榎垣外遺跡

律令体制の中心地「京」

 6世紀、遣唐使を通じて中国の制度や文化が取り入れられました。その一つが唐の長安をモデルとした「京」の建設で、藤原京(持統8(694)年)、平城京(和銅3(710)年)が造られました。この藤原京と平城京の間の大宝元(701)年に令が、大宝2(702)年に律が発布され、律令国家としての体制を整えていきました。日本の歴史にとっては、たいへんに重要な時代となりました。

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ごきしちどう五畿七道と国郡制、地方統治の制度

 6世紀、遣唐使を通じて中国の制度や文化が取り入れられました。その一つが唐の長安をモデルとした「京」の建設で、藤原京(持統8(694)年)、平城京(和銅3(710)年)が造られました。この藤原京と平城京の間の大宝元(701)年に令が、大宝2(702)年に律が発布され、律令国家としての体制を整えていきました。日本の歴史にとっては、たいへんに重要な時代となりました。

榎垣外遺跡

国郡制度

全国を国と郡に分け、地方行政を整備する制度です。地方は国、郡、里(後にごう)に区分され、こくし国司ぐんじ郡司さとおさ里長が配置されました。

信濃国諏訪ぐんが郡衙から諏訪こくが国衙へ!

 律令初期の諏訪は東山道の信濃国に属し、諏訪郡に区分されていました。諏訪郡は7つのごうと6つの牧(馬飼地)があり、現在の諏訪地域に加え上伊那地域が含まれていました。1ごうあたりおよそ1,000〜1,500人が暮らしていたとされ、諏訪郡全体ではおよそ1万5千人が生活していたと推測されます。
 えのきがいと榎垣外遺跡は、律令制度が始まった当初、信濃国に属する諏訪ぐんが郡衙として役所の機能を果たしていました。しかし、信濃国から分国して諏訪国が設置されると、ぐんが郡衙こくが国衙として機能するようになったと考えています。

03諏訪の都 えのきがいと榎垣外遺跡

えのきがいと榎垣外遺跡とその周辺から発掘された遺構・遺跡

 えのきがいと榎垣外遺跡のかんが官衙跡と古代集落跡は、横河川が造った扇状地の上に位置しており、南北約1.3km、東西約1.3kmの広がりを持っています。遺跡の北側にある梨久保・清水田・目切などの奈良・平安時代の遺構と遺物は、かんが官衙の周辺集落として位置づけられており、奈良・平安時代の集落が長地地区全体に広がっていたことが判明しています。
 遺跡からは竪穴住居の跡とほったてばしらたてものし掘立柱建物址が発見されています。特にほったてばしら掘立柱柱建物は律令期に多く見られる建物で、諏訪郡においては平安時代中期以降、律令体制の衰退とともにほとんど造られなくなるため、律令期を象徴する建物と言えます。
 「律」は「してはならないこと」、「令」は「しなくてはならないこと」を定めたものです。
 発見された遺物には、土器のほか金属器があり、役人の持っていた陶硯や帯金具なども多数発見されています。

榎垣外遺跡
榎垣外遺跡

ほったてばしら掘立柱建物

地面に掘った穴に直接柱を立てて建物を支える構造の建物のことです。建物の外周りだけに柱穴や組積が設置された側柱建物と内部に碁盤目状に柱穴が配置された総柱建物の2種類があります。

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竪穴住居

地面を掘り下げて、その中に柱を立てて屋根を葺いた建物です。日本では縄文時代から弥生時代にかけて一般的で、主に住居として使われました。諏訪のような寒冷地では、竪穴住居が適していたと考えられており、律令時代でも官人も庶民も竪穴住居に住んでいた遺構が多く見られます。

榎垣外遺跡

ぼくしょ墨書

榎垣外遺跡では、土器に文字が書かれた「墨書」が発見されています。土器の底に書かれた文字は、器を伏せると見えることから、使用する場所や人を示すために使われたと考えられています。一方、外面に書かれた墨書は「福」「大」「吉」といった一文字のものが多く、願望や祈祷に使われたと考えられる吉祥文字とされています。

榎垣外遺跡

とうす刀子

官衙の役人にとって、必需品であり、木簡を作ったり削ったりするのに使われていました。一方、一般庶民には料理などに使う万能ナイフとして用いられていたと考えられます。

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帯金具

「銙帯(かたい)」とは、青銅製の金具を付けた革帯の一部です。金具の大きさは身分によって決められていました。

04土器から見える時代と流通

 現代では考えにくいことですが、律令期には国の役所だけでなく、庶民が使用する器まで細かく決められていました。えのきがいと榎垣外遺跡で発掘された遺物を観察することで、その時代の様子を知ることができます。
 はじき土師器は縄文時代からの伝統的な素焼きの器で、使用される現地で作られた「在地の土器」です。須恵器は、5世紀に朝鮮半島から伝わった窯焼の器で、信濃国では6世紀に松ノ山窯(長野市)で始まりました。
 律令の一郡一窯の制により各郡で須恵器生産をしますが、諏訪郡はおにどがま鬼戸窯が8世紀前半に存在しましたが閉じられました。こののちの須恵器生産は、松本・塩尻のけしぼうずやま芥子坊主山しょうぶざわこよう菖蒲沢古窯や飯田のさんのみやこよう三宮古窯などの大きな生産地で作られました。えのきがいと榎垣外遺跡の須恵器の供給元ははっきりとしませんが、けしぼうずやま芥子坊主山しょうぶざわこよう菖蒲沢古窯からもたらされたと思われます。
 須恵器は、10世紀に東海地方からかいゆうとうき灰釉陶器が搬入されることで衰退します。甲斐型土器は甲斐国(山梨県)で作られた土器で、えのきがいと榎垣外遺跡では8世紀中ごろ~9世紀前半に見られます。これは、甲斐国との交流があったことをしめしています。黒色土器は、律令制の衰退から須恵器の供給がうまくいかなくなり、須恵器の模倣品として在地で作られ、8世紀後半~9世紀に使用されました。9世紀に東海地方で生産されたかいゆうとうき灰釉陶器は、えのきがいと榎垣外遺跡では9世紀中ごろに見られるようになりますが少ないです。かいゆうとうき灰釉陶器が什器の中心となるのは10世紀で、以後平安時代末まで継続します。これらは、東海地方の、さなげよう猿投窯や東美濃窯などで作られ全国へ流通しました。

榎垣外遺跡 榎垣外遺跡

はじき土師器と須恵器

 日本では古くから、野焼きで作られる「はじき土師器」が使われていました。はじき土師器は、さんかしょうせい酸化焼成によって赤みを帯びているのが特徴です。律令制初期の集落跡から発掘される器には、はじき土師器と須恵器が混在していますが、律令制が成熟して機能し始めると、古来のはじき土師器は減少し、須恵器に統一されていきます。須恵器は朝鮮半島にルーツを持つとされ、登り窯や穴窯といった閉鎖空間で1000度~1200度という高温で焼き固められ、かんげんしょうせい還元焼成という化学反応によって青みがかった硬い器になります。

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甲斐型土器

はじき土師器の一つで、隣国甲斐国(現山梨県)で作られた土器です。坏は、箱型の器形と赤褐色の色目、見込みの暗文が、甕はどきたいど土器胎土に雲母がたくさん含まれることが特徴です。8世紀中ごろからみられ、高級官人集落と考えられる片間町地区からたくさん発見されています。また、諏訪市じゅうにのき十二ノ后遺跡など諏訪一円で発見されている土器です。

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黒色土器

律令制度は4期の後半頃から徐々に緩み始め、それに伴い安定して支給されていた須恵器が手に入りにくくなると、代用品として黒色土器が多用されるようになりました。この黒色土器は、はじき土師器の製作時に炭を付けてから焼くことで、須恵器に似せて作られたものだと考えられています。

榎垣外遺跡

かいゆうとうき灰釉陶器

かいゆうとうき灰釉陶器は、植物の灰を釉薬として使った陶器です。9世紀中頃からは地方でも一般化し、使われていました。灰釉が溶けてできる自然な色合いや質感が特徴で、それまでの器に比べて水が染み込みにくいという実用性もありました。尾張のさなげよう猿投窯で開発され、須恵器に代わって高級食器として普及しました。

05えのきがいと榎垣外遺跡から出土した稀少な遺物

高級官人が使っていた貴重品の数々

榎垣外遺跡

 えのきがいと榎垣外遺跡で発掘された遺物の中には、点数が少なく希少な特殊遺物があります。これらは高級官僚や僧侶など、一部の人しか保有できなかったと考えられています。
 特に、片間町や金山東地区の遺構からは仏教の儀式に使われたかいゆうとうき灰釉陶器ちょうけいへい長頸瓶」や銅椀・鉄鉢などの遺物も多く出土しています。また庇を持った建物もあったことから、有力氏族の居宅の他にも仏教に関するお堂のような施設があったと考えられています。

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銅椀(さはり佐波理

えのきがいと榎垣外遺跡で発見された銅椀は、材料に「さはり佐波理」と呼ばれる錫との合金が使われており、仏具として用いられていたと考えられます。これは、中国大陸や朝鮮半島から渡来したものが多く、希少でした。さなげよう猿投窯で開発され、須恵器に代わって高級食器として普及しました。

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鉄鉢

てっぱち鉄鉢は、僧侶がたくはつ托鉢の際に布施を受けるための器や、食事をする際の食器として使用されました。鉄鉢は仏教の教えを具現化したものであり、質素な生活と修行を象徴する道具でした。

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かいゆうとうき灰釉陶器ちょうけいへい長頸瓶

通常は、食膳具の液体の入れ物として使われます。えのきがいと榎垣外遺跡では、いくつかのかいゆうとうき灰釉陶器ちょうけいへい長頸瓶」や小瓶に口縁部を意識的に欠いたものがあり、食膳具として使用されたのとは違う、儀式などに使用されたと考えられます。

榎垣外遺跡 榎垣外遺跡

陶硯と転用硯

須恵器でできた硯のことで、えのきがいと榎垣外遺跡では円面硯という丸い硯が発見されています。中には、高級官人が使用していたと思われる貴重な品もあり、都から携えてきたと考えられています。円面硯は貴重品であったため、須恵器の底部やくぼんだ破片を墨壺や硯として使用した「転用硯」も見つかっています。

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緑釉陶器

鉛を釉薬として用いた陶器で、強く鮮やかな緑色が特徴です。薄い黄色を帯びたものから濃緑色のものまで、多様な表現の陶器があります。これは、法具など特殊な使い方をされた器で一般人には入手が難しい器でした。

06遺構から見る諏訪の都の変遷

ぐんが郡衙にあった建物

 奈良時代、初期の律令体制期である721年から731年の10年間諏訪郡は信濃国から分かれて「諏訪国」が成立しました。
 遺跡北東部、現在の長地保育園周辺では、21棟のほったてばしら掘立柱建物が発見されており、これらは郡庁の建物群と考えられています。その中には、桁行が13間という長舎も発見されています。最大のものでは東西に約85mの長さがありました。これらの建物はロの字形に配置され、柱穴の状態から、少なくとも4回建て替えられたことがわかっています。

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政庁

役人が政務を行う建物。正殿、脇殿、曹子など複数の建物からなる例が多い

正倉

租税として徴収した稲等を収蔵した建物

厨家

宴会の食膳や役人の食事の準備が行われた建物

出張してきた役人の宿泊に関わる施設

郡寺

仏教の普及や、国家の安寧を祈るための施設としてぐんが郡衙の近くに建てられたことから、一体化した施設として機能していたと考えられる

ぐんが郡衙の変遷

【凡例】=一般住居=大型中核住居=一般住居(10世紀以降)

諏訪国創建期(1期〜2期)

弥生時代の末期には、現在の目切地区に小規模な竪穴住居の集落が見られるだけでした。律令時代1期に諏訪郡庁が設置され、諏訪国が成立した2期には、一辺が6.5m以上ある中核住居跡が見られます。

榎垣外遺跡
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正庁期(3期〜5期)

律令時代の最盛期である3期から5期にかけては、郡庁や高級官人の住居と考えられる中核住居が広範囲に広がりました。このことから、郡の運用が確立し、郡役所が機能していたと考えられます。

榎垣外遺跡
榎垣外遺跡
榎垣外遺跡

過渡期〜正倉期(6期〜8期)

郡衙の機能が徐々に衰退し、榎垣外遺跡の正庁院から正倉院に変わって行った時期だと考えられます。

榎垣外遺跡
榎垣外遺跡
榎垣外遺跡

一般集落期(9期以降)

8期以降の衰退期には、大型の中核住居は姿を消し、一般住居と考えられている竪穴住居の集落が残っていきました。

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07えのきがいと榎垣外遺跡の遺物から見る律令国家の繁栄と衰退

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榎垣外遺跡

08律令時代の諏訪

諏訪こくが国衙国衙やぐんが郡衙しゅっし出仕した人々

 律令の規定によると、諏訪郡は下郡に分類され、ぐんが郡衙の集落には大領をはじめ、約100人がそれぞれ役割を担っていました。その他にも、様々な職人が必要な道具を製作していました。これらの人々にその家族を含めると、ぐんが郡衙の周囲には大きな集落が形成されていたと考えられます。集落の栄枯盛衰は、ぐんが郡衙の動向と密接に関係していました。出仕者たちは、郡庁にある仕事場に日の出とともに出勤し、半日ほどで退勤していました。中央の例に倣うと、給食も支給されていたようで、食料の調理やきょうえん饗宴を担う「くりや」に関する人員が非常に多かったのが特徴です。ぐんじ郡司の主な業務は、税の徴収、保管、送付などの管理と、国の公式な儀式や地域の催事、きょうえん饗宴、農業奨励など様々な儀式の執行でした。これらはすべて律令の規定に基づいて行われました。わずか10年間だけ存在したとされる諏訪国でも、こくし国司が任命されていたと考えられますが、その記録は全く残っていません。こくし国司は中央から赴任する役人ですが、えのきがいと榎垣外遺跡でそれらしい遺構や遺物が見つかっているかというと、それを断定することは難しいです。しかし、出土した遺物の中に良質な陶硯や畿内系のはじき土師器が見られることは、その一つの手掛かりかもしれません。

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区分 役職 仕事内容 人員
郡庁 大領郡の長官 郡の行政、司法、徴税の責任者1人
小領郡の次官 大領の補佐1人
主帳郡の主典 文書作成1人
郡掌生文書の清書(書記)3人
案主文書の作成や保管を行う2人
正倉の鍵管理・出納業務2人
備米長の駆使備米の管理雑用8人
厨長厨房(台所)の長1人
厨の駆使厨房(台所)の雑用・下働き50人
器作容器・器具の製作2人
造紙丁紙作り1人
採松丁松を採集し松明を製作2人
炭焼丁炭焼1人
採葉丁薬(わら)の調達2人
まぐさ丁牛馬の飼料や田畑の肥料を採取・製作3人
駅伝使備設丁伝使の接待や調度準備4人
伝馬丁伝馬の管理・運営2人
正倉 税長正税の管理 各正倉別に三人3人
各郷 徴税丁租・出挙の徴集3人
調長調の徴集2人
服長機織りの管理1人
備長備の徴集1人
備米長備米の徴集1人
駅(うまや) 駅伝使駅伝制度を使って公文書の伝達や官吏の移動にあたる4人
舎駅丁駅使の接待4人

庶民の暮らし

 諏訪における庶民の住居は、竪穴住居以外は発見されていません。律令を象徴するほったてばしら掘立柱たてものし建物址は、えのきがいと榎垣外遺跡以外にはわずかしか見つかっていません。
 竪穴住居は縄文時代から作られてきたもので、律令期のものはほぼ方形で、屋内にかまどを設け調理が行われていました。集落の構成は明確ではありませんが、一ごうの戸数は50戸とされ、1戸は平均で約30人、血縁関係のある複数の家族が暮らしていました。諏訪には七つのごうと六つの牧、一つのうまやがあり、各ごうには複数の集落が存在していました。
 衣服では、すでに縄文時代から織物は存在しており、ぼうすいしゃ紡錘車あさかわはぎき麻皮剥器が発見されていることから、庶民は麻などを使って糸を紡ぎ、布を織っていたことがわかります。この布は、ちょう調ようとしても納められていました。正倉院の御物には、信濃国と記された白布が残されています。奈良時代や平安時代の様々な文書に描かれた絵を見ると、当時の庶民の衣類は、現在の作務衣のようなものでした。
 主食はお米でしたが、誰もが白米を食べられたわけではありません。貴族階級は白米を食べ、様々な食物を楽しんでいましたが、庶民は、玄米に粟や稗、キビなどを混ぜたものに、おかず一品と漬物、塩が添えられた質素な食事でした。当時は1日2食で、長時間働く際には間食をとっていたようです。お米は十分になかったため、狩猟やぎょろう漁撈、採集も行われていました。これらの食事は、はじき土師器すえき須恵器つきや椀、皿に盛られていました。生活用水は、須恵器のおおがめ大甕に溜めて使われていました。木器も使用されていたと考えられますが、諏訪では見つかっていません。箸は、藤原京ではほとんど出土しませんが、平城京では多く出土しているため、奈良時代になってから使われ始めたと考えられています。
 律令期、庶民の大多数は農業従事者でした。律令制のもと、与えられたくぶんでん口分田でお米を作り、を納めていました(班田収授法)。また、布などのちょう調(産物)や、労働の代わりに布などを納めるよう、そして労役の提供であるぞうよう雑徭といった税負担も定められていました。これらの税は庶民にとって重く、後には農民の逃亡や、男性に重い税が課せられていたため、女性ばかりの戸籍にするなど戸籍を偽るといった事態が横行しました。
 庶民は、租庸調などの税を納め、自分たちの生活を維持するために、日の出から日没まで必死に働いていました。しかし、時には農業奨励のためのきょうえん饗宴や祭りなどの楽しみもあったようです。当時の日本国は、このような名もなき庶民たちに支えられていたのです。

榎垣外遺跡

橋原遺跡53号住居跡

榎垣外遺跡

炭化米塊出土状態

榎垣外遺跡

炭化米塊

09諏訪国の成立の背景と消滅

諏訪国の設置と廃止

 信濃国がわずか10年間だけ諏訪国として分国された理由は、複数の要因が考えられています。最も有力なのは、律令制を地方まで確実に浸透させるため、そして広大な信濃国の地理的な不便さを解消するためです。

 諏訪国が分国された理由については諸説あり、主に以下の5つの説が挙げられています。

榎垣外遺跡

諏訪国を分国した理由

1.律令制の整備
地方行政組織の確立を目指す過程で、分国がその一環として行われたという説。

2.東北経営の中継拠点
東北地方への進出や支配を進める上で、中継地点としての役割を期待されたという見方。

3.諏訪明神を中心とする特殊性
諏訪地域が独自の祭政体を持つ特殊な土地であったため、独立した行政区分として扱われたという説。

4.人口増加と経済発展
人口が増え、経済状況が向上したことにより、新たな行政単位が必要になったという説。

5.信濃国の広大さ
信濃国が南北に広大であったため、律令体制の施行や管理が不便であったという地理的要因を重視する説。

 これらの説のうち、特に律令制の整備と信濃国の広大さが主要な理由として考えられています。諏訪国が10年で廃止され、再び信濃国に合併された明確な理由は、当時の文献にも諸説にも記されていません。しかし、国として存続するには経済的条件が不十分だった可能性や、国郡制の整備が進む中で、かえって国を置くことが行政上不都合であったと考えられます。他の分国事例と異なり、元の国に合併された諏訪国は、特殊なケースと言えます。
 このほか、諏訪国の領域についてもはっきりした記録はなく、様々な説がありますが、現在でいう伊那、諏訪、松本、安曇周辺をその領域とする説が一般的です。

榎垣外遺跡

Epilogue

歴史が教えてくれること

  ―未来につながる諏訪国

榎垣外遺跡
榎垣外遺跡

 えのきがいと榎垣外遺跡がある岡谷市長地一帯は、縄文時代の黒曜石の加工・流通から、現代の微細加工製造業に至るまで、「ものつくり」の歴史的な系譜が続いています。

 この地が、奈良・平安時代に栄えた「諏訪の都」に選ばれた背景には、地理的条件をはじめとする様々な要因が複合的に絡み合っていたと考えられます。

 えのきがいと榎垣外の発掘では、布の生産に関連するてつがま鉄鎌あさかわはぎき麻皮剥器ぼうすいしゃ紡錘車、そして農具や工具と見られる鉄器が発見されました。これは、当時の「諏訪の都」でも、人々の暮らしを支える「ものつくり」が行われていたことを示しています。特に、税として朝廷に納められた布は、しなのぬの信濃布としてよく知られていました。
 発掘調査の成果は、諏訪国や諏訪ぐんが郡衙の歴史的な事実だけでなく、当時の人々の日常的な営みをありのままに伝えてくれます。

 記録に残されていない歴史を、発掘された事実に基づいて再構築することは、歴史学の重要な目的の一つです。過去の人々の生活や思いを想像することは、私たちがこれから進むべき道を考える上で大切なことだと考えます。

 しかし、現在の科学をもってしてもまだまだ解明されていない事実もたくさん残っています。だからこそ、文化財を未来のより進んだ方法で、さらに詳しく解明するために「文化財保護」の活動がとても重要になってきます。

 かつて「諏訪の都」として栄えたえのきがいと榎垣外遺跡は、現在の地域に住む人々が郷土に誇りと愛着を育む、大きなきっかけとなります。諏訪国や諏訪郡衙の歴史を正しく理解することは、私たちの未来をより良くするために不可欠なことです。そして、地域を愛し、誇りに思う心は、地域を活性化させ、豊かな心を育むことにつながると考えられます。

 過去の人々の営みの息吹は、確かに私たちの根底に息づいているのです。

榎垣外遺跡
榎垣外遺跡
榎垣外遺跡

令和7年度長野県地域発元気づくり支援金活用事業

執  筆:山田武文(岡谷市教育委員会)

企  画:髙見俊樹・三上徹也(大昔調査会)

協  力:坂間雄司(おかやるく)

資料提供:岡谷市教育委員会

編集発行:一般社団法人 大昔調査会