長野県岡谷市
最初の調査は、明治34(1901)年に
その後は本格的な学術調査が行われないまま、宅地化や開発が進行。埋もれたままの遺跡の状態が心配されました。
しかし、『岡谷市史(上巻)』の編纂事業を機に、
その結果、
調査をさらに進めると、広範囲にわたる遺構・遺物の存在が明らかになり、
特に、昭和57(1982)年に行われた長地保育園建設に伴う発掘調査は学術的に大きな衝撃となりました。この調査で発見されたのは、桁行が十間以上=18m以上もの長大な
その後、令和6年までに300回以上の発掘調査を実施。さらに、長い建物(長舎)に囲まれた正庁を確認。結果、奈良時代から平安時代にかけての
さらに驚くべきは、
旧石器時代から縄文時代の狩猟・採集中心で比較的平等な社会は、弥生時代の稲作伝来とともに貧富の差が生まれ、各地に地域をまとめる首長が出現し、社会の階級化が進みました。特に近畿地方の有力な豪族は現在の奈良県付近に強大な勢力を築き上げ、「ヤマト政権」へと発展します。
権力を持ったヤマト政権は、地方豪族とのゆるやかな連合を形成しました。その象徴として前方後円墳などの巨大な墳墓が各地に築造され、影響力を示しました。この時代は古墳時代と呼ばれ、小さな「クニ」が集まって「日本国家」へと移行する重要な転換期となりました。
しかし、政権成立後も豪族間の勢力争いは続き、天皇を中心とした統一国家の建設は難航します。
推古天皇のもと、摂政となった聖徳太子と豪族出身の蘇我馬子が主導した国政改革によって、中央集権体制は加速しました。
その代表的な取り組みの一つが「十七条憲法」の制定です。この憲法は、役人たちが争いを避け、互いに協調すること、そして豪族間の対立を抑制することを目的とした、官僚の心構えを定めたものでした。仏教や儒教の思想を取り入れつつも、日本独自の精神が反映されており、後の日本の政治や文化に大きな影響を与えました。
また、能力主義に基づく人材登用を目指した「冠位十二階」も導入されました。これは、従来の氏族制度による世襲制を廃し、才能や功績に応じて役人を登用することで、天皇を中心とする新たな政治体制を確立しようとする試みでした。
しかし、聖徳太子の死後、それまでの権力バランスは崩壊し、蘇我氏は急速にその権力を拡大させました。蘇我氏は天皇に匹敵するほどの力を持ち、政治の実権を掌握していきました。
645年6月12日に起きた蘇我入鹿暗殺事件(
大化の改新による大きな政治改革は、それまでの政治構造を大きく変え、豪族の力を抑え、天皇の権力を強化しました。
その核となったのが律令制度です。これは、「律」と「令」という法律によって国家が統治される体制のことです。
「律」は「してはならないこと」、「令」は「しなくてはならないこと」を定めたものです。
中央集権的な官僚支配体制が特徴で、天皇を中心としたヤマト政権が土地と人民を支配しました。
701年に制定された大宝律令は、中国の律令を参考にしつつも日本の現状に合わせた律と令を制定し、国家=天皇による支配体制の確立を進めました。
公地公民制:土地は国家が所有し、
班田収授法:国家より土地を貸しあたえられ、
人民には、租・庸・調・雑徭などの税が課せられ、
天皇を中心とした中央集権体制のもと、
6世紀、遣唐使を通じて中国の制度や文化が取り入れられました。その一つが唐の長安をモデルとした「京」の建設で、藤原京(持統8(694)年)、平城京(和銅3(710)年)が造られました。この藤原京と平城京の間の大宝元(701)年に令が、大宝2(702)年に律が発布され、律令国家としての体制を整えていきました。日本の歴史にとっては、たいへんに重要な時代となりました。
6世紀、遣唐使を通じて中国の制度や文化が取り入れられました。その一つが唐の長安をモデルとした「京」の建設で、藤原京(持統8(694)年)、平城京(和銅3(710)年)が造られました。この藤原京と平城京の間の大宝元(701)年に令が、大宝2(702)年に律が発布され、律令国家としての体制を整えていきました。日本の歴史にとっては、たいへんに重要な時代となりました。
全国を国と郡に分け、地方行政を整備する制度です。地方は国、郡、里(後に
律令初期の諏訪は東山道の信濃国に属し、諏訪郡に区分されていました。諏訪郡は7つの
遺跡からは竪穴住居の跡と
「律」は「してはならないこと」、「令」は「しなくてはならないこと」を定めたものです。
発見された遺物には、土器のほか金属器があり、役人の持っていた陶硯や帯金具なども多数発見されています。
地面に掘った穴に直接柱を立てて建物を支える構造の建物のことです。建物の外周りだけに柱穴や組積が設置された側柱建物と内部に碁盤目状に柱穴が配置された総柱建物の2種類があります。
地面を掘り下げて、その中に柱を立てて屋根を葺いた建物です。日本では縄文時代から弥生時代にかけて一般的で、主に住居として使われました。諏訪のような寒冷地では、竪穴住居が適していたと考えられており、律令時代でも官人も庶民も竪穴住居に住んでいた遺構が多く見られます。
榎垣外遺跡では、土器に文字が書かれた「墨書」が発見されています。土器の底に書かれた文字は、器を伏せると見えることから、使用する場所や人を示すために使われたと考えられています。一方、外面に書かれた墨書は「福」「大」「吉」といった一文字のものが多く、願望や祈祷に使われたと考えられる吉祥文字とされています。
官衙の役人にとって、必需品であり、木簡を作ったり削ったりするのに使われていました。一方、一般庶民には料理などに使う万能ナイフとして用いられていたと考えられます。
「銙帯(かたい)」とは、青銅製の金具を付けた革帯の一部です。金具の大きさは身分によって決められていました。
現代では考えにくいことですが、律令期には国の役所だけでなく、庶民が使用する器まで細かく決められていました。
律令の一郡一窯の制により各郡で須恵器生産をしますが、諏訪郡は
須恵器は、10世紀に東海地方から
日本では古くから、野焼きで作られる「
律令制度は4期の後半頃から徐々に緩み始め、それに伴い安定して支給されていた須恵器が手に入りにくくなると、代用品として黒色土器が多用されるようになりました。この黒色土器は、
特に、片間町や金山東地区の遺構からは仏教の儀式に使われた
通常は、食膳具の液体の入れ物として使われます。
須恵器でできた硯のことで、
鉛を釉薬として用いた陶器で、強く鮮やかな緑色が特徴です。薄い黄色を帯びたものから濃緑色のものまで、多様な表現の陶器があります。これは、法具など特殊な使い方をされた器で一般人には入手が難しい器でした。
奈良時代、初期の律令体制期である721年から731年の10年間諏訪郡は信濃国から分かれて「諏訪国」が成立しました。
遺跡北東部、現在の長地保育園周辺では、21棟の
役人が政務を行う建物。正殿、脇殿、曹子など複数の建物からなる例が多い
租税として徴収した稲等を収蔵した建物
宴会の食膳や役人の食事の準備が行われた建物
出張してきた役人の宿泊に関わる施設
仏教の普及や、国家の安寧を祈るための施設として
【凡例】=一般住居=大型中核住居=一般住居(10世紀以降)
弥生時代の末期には、現在の目切地区に小規模な竪穴住居の集落が見られるだけでした。律令時代1期に諏訪郡庁が設置され、諏訪国が成立した2期には、一辺が6.5m以上ある中核住居跡が見られます。
律令時代の最盛期である3期から5期にかけては、郡庁や高級官人の住居と考えられる中核住居が広範囲に広がりました。このことから、郡の運用が確立し、郡役所が機能していたと考えられます。
郡衙の機能が徐々に衰退し、榎垣外遺跡の正庁院から正倉院に変わって行った時期だと考えられます。
8期以降の衰退期には、大型の中核住居は姿を消し、一般住居と考えられている竪穴住居の集落が残っていきました。
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律令の規定によると、諏訪郡は下郡に分類され、
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| 区分 | 役職 | 仕事内容 | 人員 |
|---|---|---|---|
| 郡庁 | 大領 | 郡の長官 郡の行政、司法、徴税の責任者 | 1人 |
| 小領 | 郡の次官 大領の補佐 | 1人 | |
| 主帳 | 郡の主典 文書作成 | 1人 | |
| 郡掌生 | 文書の清書(書記) | 3人 | |
| 案主 | 文書の作成や保管を行う | 2人 | |
| 取 | 正倉の鍵管理・出納業務 | 2人 | |
| 備米長の駆使 | 備米の管理雑用 | 8人 | |
| 厨長 | 厨房(台所)の長 | 1人 | |
| 厨の駆使 | 厨房(台所)の雑用・下働き | 50人 | |
| 器作 | 容器・器具の製作 | 2人 | |
| 造紙丁 | 紙作り | 1人 | |
| 採松丁 | 松を採集し松明を製作 | 2人 | |
| 炭焼丁 | 炭焼 | 1人 | |
| 採葉丁 | 薬(わら)の調達 | 2人 | |
| まぐさ丁 | 牛馬の飼料や田畑の肥料を採取・製作 | 3人 | |
| 駅伝使備設丁 | 伝使の接待や調度準備 | 4人 | |
| 伝馬丁 | 伝馬の管理・運営 | 2人 | |
| 正倉 | 税長 | 正税の管理 各正倉別に三人 | 3人 |
| 各郷 | 徴税丁 | 租・出挙の徴集 | 3人 |
| 調長 | 調の徴集 | 2人 | |
| 服長 | 機織りの管理 | 1人 | |
| 備長 | 備の徴集 | 1人 | |
| 備米長 | 備米の徴集 | 1人 | |
| 駅(うまや) | 駅伝使 | 駅伝制度を使って公文書の伝達や官吏の移動にあたる | 4人 |
| 舎駅丁 | 駅使の接待 | 4人 |
諏訪における庶民の住居は、竪穴住居以外は発見されていません。律令を象徴する
竪穴住居は縄文時代から作られてきたもので、律令期のものはほぼ方形で、屋内にかまどを設け調理が行われていました。集落の構成は明確ではありませんが、一
衣服では、すでに縄文時代から織物は存在しており、
主食はお米でしたが、誰もが白米を食べられたわけではありません。貴族階級は白米を食べ、様々な食物を楽しんでいましたが、庶民は、玄米に粟や稗、キビなどを混ぜたものに、おかず一品と漬物、塩が添えられた質素な食事でした。当時は1日2食で、長時間働く際には間食をとっていたようです。お米は十分になかったため、狩猟や
律令期、庶民の大多数は農業従事者でした。律令制のもと、与えられた
庶民は、租庸調などの税を納め、自分たちの生活を維持するために、日の出から日没まで必死に働いていました。しかし、時には農業奨励のための
信濃国がわずか10年間だけ諏訪国として分国された理由は、複数の要因が考えられています。最も有力なのは、律令制を地方まで確実に浸透させるため、そして広大な信濃国の地理的な不便さを解消するためです。
諏訪国が分国された理由については諸説あり、主に以下の5つの説が挙げられています。
1.律令制の整備
地方行政組織の確立を目指す過程で、分国がその一環として行われたという説。
2.東北経営の中継拠点
東北地方への進出や支配を進める上で、中継地点としての役割を期待されたという見方。
3.諏訪明神を中心とする特殊性
諏訪地域が独自の祭政体を持つ特殊な土地であったため、独立した行政区分として扱われたという説。
4.人口増加と経済発展
人口が増え、経済状況が向上したことにより、新たな行政単位が必要になったという説。
5.信濃国の広大さ
信濃国が南北に広大であったため、律令体制の施行や管理が不便であったという地理的要因を重視する説。
これらの説のうち、特に律令制の整備と信濃国の広大さが主要な理由として考えられています。諏訪国が10年で廃止され、再び信濃国に合併された明確な理由は、当時の文献にも諸説にも記されていません。しかし、国として存続するには経済的条件が不十分だった可能性や、国郡制の整備が進む中で、かえって国を置くことが行政上不都合であったと考えられます。他の分国事例と異なり、元の国に合併された諏訪国は、特殊なケースと言えます。
このほか、諏訪国の領域についてもはっきりした記録はなく、様々な説がありますが、現在でいう伊那、諏訪、松本、安曇周辺をその領域とする説が一般的です。
この地が、奈良・平安時代に栄えた「諏訪の都」に選ばれた背景には、地理的条件をはじめとする様々な要因が複合的に絡み合っていたと考えられます。
発掘調査の成果は、諏訪国や諏訪
記録に残されていない歴史を、発掘された事実に基づいて再構築することは、歴史学の重要な目的の一つです。過去の人々の生活や思いを想像することは、私たちがこれから進むべき道を考える上で大切なことだと考えます。
しかし、現在の科学をもってしてもまだまだ解明されていない事実もたくさん残っています。だからこそ、文化財を未来のより進んだ方法で、さらに詳しく解明するために「文化財保護」の活動がとても重要になってきます。
かつて「諏訪の都」として栄えた
過去の人々の営みの息吹は、確かに私たちの根底に息づいているのです。
令和7年度長野県地域発元気づくり支援金活用事業
執 筆:山田武文(岡谷市教育委員会)
/
企 画:髙見俊樹・三上徹也(大昔調査会)
/
協 力:坂間雄司(おかやるく)
資料提供:岡谷市教育委員会
/
編集発行:一般社団法人 大昔調査会